サッカーの監督として知られる「加茂周かもしゅう」氏。日本サッカー界を大きく成長させた人でありますが、代表監督としては苦い経験もあった人です。加茂監督についてご紹介します。
サッカー選手としての加茂周
加茂氏は1939年生まれで高校からサッカーを始めました。大学(関西学院大)ではレギュラー選手ではなかったそうです。1964年大学卒業後、関西大サッカー部の先輩に誘われヤンマーディーゼルサッカー部(セレッソ大阪)に入団して1967年まで選手として活躍、14試合1ゴールしています。その後、加茂氏はヤンマーディーゼルサッカー部のコーチとして1972年まで努めました。加茂監督は割合早くから指導者として活躍してきたのですね。
監督としてのパイオニア加茂周
加茂監督は日本人の指導者として初めてのプロ監督契約をした人です。日産自動車サッカー部(横浜F・マリノス)の監督に就任し、1983年には天皇杯優勝、その後も二度の天皇杯優勝、連勝記録などサッカー指導者として輝かしい功績を納めます。ここで加茂監督を日本代表監督へ、という動きがありながらもこの時点では就任は叶わず。全日空サッカークラブ(横浜フリューゲルス)の監督として、みごと天皇杯優勝に導きました。この時期サッカー界に加茂監督アリですね。
日本代表監督としての加茂周
加茂監督の名前をサッカーファンでなくても知ることになるのは1994年からの日本代表監督の時期でしょう。就任してからはゾーンプレスで追い込んで素早く攻撃に転じる加茂サッカーを浸透させようとしました。AFCアジアカップ1996ではグループステージを3戦全勝で突破したもの準々決勝でクウェート代表に敗退。1998ワールドカップのアジア最終予選の成績が思わしくなく加茂監督の采配へ批判が高まり、更迭、監督解任になりました。予選途中の日本代表監督解任は初めてのことであり、サッカーブームもありメディアが騒ぎました。その後は京都パープルサンガの監督、大学サッカー部の監督としてサッカー界に貢献しました。
加茂監督の名言を紹介
監督としての活動を離れた後、サッカー解説者として数々の名言を残した加茂周氏。サッカーチームの監督として荒波を乗り越えてきた人らしい言葉があります。「サッカーの監督というのは世界一、クビが飛ぶのが早い職業です」「仮にも代表チームであるからには胸を借りるとか勉強させてもらうとかは口が裂けても言わない」など加茂監督の本音を口にしていると思われます。「今のキックはパンチがありますね」なんて発言もあり加茂氏のユーモラスな一面もみえます。
サッカーショップKAMO
男4人兄弟の三男である加茂氏。お兄さん(加茂豊)は日本代表に呼ばれる学生サッカーの選手。弟はサッカーショップKAMOという大阪や首都圏にいくつもの店舗を持つ社長(加茂建)です。サッカーに係わりのある兄弟ですが、お父様は毎日新聞の政治部記者だったそうです。加茂周の「周」は生まれる直前に毎日新聞社が後援する飛行機「ニッポン号」が世界一周を達成したことにちなんでつけられたのだとか。
偉大なる加茂周という人
加茂監督の経歴はいかがだったでしょうか。早くから優秀な指導者として歩んで来られたことがわかりますね。名言には親近感を覚える人もいるのではないでしょうか。