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南米の中でも、コロンビアのサッカー熱はひときわ激しく、時にはコロンビア代表の殺人事件にまで発展してしまうほど。コロンビア代表にまつわるサッカーの伝説は数多く、その一旦をご紹介します。

コロンビア代表に注がれる熱狂的なサッカー熱

コロンビアにサッカーが来たのは?

20世紀の初頭に、南米の経済を牛耳っていたイギリスとの交易により、コロンビアにサッカーが伝えられたといわれています。1931年には、FIFAに加盟、1936年には、正式に「コロンビアサッカー連盟」(FCF)と名付けられました。それにより、サッカーも本格的に普及しはじめ、1940年代から50年代にかけて主要なサッカークラブが次々と創立されました。代表チームが組織されたのが、1938年。コロンビア代表が初の国際試合に参戦しました。

コロンビア代表の初ワールドカップは?

コロンビア代表の初めてのサッカーワールドカップ出場は、1962年。それまでに。国内のリーグの乱立などで、一時期には、南米サッカー連盟にコロンビア代表などが排除勧告う受ける事態もあり、前評判は相当に低かったといわれます。結果は、強豪ソビエト連邦と引き分けたものの、0-5とユーゴスラビアには敗退。グループ最下位でワールドカップの大会を終えました。

コロンビアでサッカーワールドカップ?

実は、一度、コロンビアがサッカーワールドカップの開催地に決定したことがあります。本当であれば、1986年はコロンビア代表が母国で華々しくプレーができる歴史的な年となるはずでした。しかし、FIFA会長に就任したジョアン・アヴェランジェ氏が参加国の大幅増を提案、財力の乏しいコロンビアは、辞退することになってしまい、1986年はメキシコ開催となってしまいました。

サッカー、コロンビア代表の悲劇

1994年アメリカワールドカップは、コロンビアにとって優勝への期待が最高潮になっている大会でした。南米予選大会を圧倒的な強さで通過、優勝候補のダークホースとして注目を浴びていました。そこで起こった悲劇。地元開催国のアメリカとの試合で、オウンゴールにより敗退してしまったのです。1時リーグ敗退の予期せぬ結果にコロンビア代表選手は自国に帰れず、唯一、帰国したコロンビア代表選手、エスコバル氏が酒場で市民から12発の銃弾をうたれ射殺されてしまいました。「エスコバルの悲劇」として今だ、語り継がれています。

繰り返されるコロンビア代表の悲劇

2006年には、またも、コロンビア代表選手を悲劇が襲います。
エルソン・ベセラ選手がナイトクラブにいたときに、一般市民と口論になり
またも射殺されてしまいました。この悲劇は、「エスコバルの悲劇の再来」と呼ばれ
コロンビアのサッカーに対する世界の目も厳しくなっていたようです。

初のベスト8に輝く、コロンビア代表

先ごろ行われた2014年サッカーワールドカップブラジル大会では、ついに悲願のベスト8入りを果たしました。日本とも対戦し、4対1で圧倒的な強さを見せつけました。コロンビア代表選手たちに対して、「フェアプレー賞」も授与されるなど、開催国ブラジルに準々決勝で敗れたものの、世界の注目を浴びました。

コロンビア代表のスター選手は?

1980年代、コロンビアサッカーの救世主として現れたのが、カルロス・バルデラマ選手。チリチリの長金髪という風貌で、ピッチでもひときわ存在感を放ちながら、フィジカル的というよりもむしろ、確実なプレイをこなすテクニシャンとしてコロンビアのワールドカップ イタリア大会への出場の原動力となり、コロンビア代表を28年ぶりにワールドカップへ導いてくれた英雄です。

サッカーコロンビア代表、これから注目は?

ブラジル大会までは、大会の得点王に輝き一気に世界サッカーのスター選手の仲間入りを果たしたのが、ハメス・ロドリゲス選手ですよね。コロンビア人としては、歴代最高の移籍金8,000万ユーロでレアル・マドリードへ移籍し、ニュースとなりました。コロンビア代表(U-20代表)として、2011年のトゥーロン国際大会では優勝に貢献するなど、コロンビア代表の若きエースとしてますます期待されています。

コロンビア代表のサッカーから目が離せない

コロンビアの波乱万丈のサッカーの歴史ですが、今回ベスト8も果たし、
南米の強豪国としての存在感も十分です。これからのコロンビア代表の活躍が
楽しみですね。

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