日程調整サービス『調整さん』が運営する新しいメディア

マラソンの「遅い」世界記録保持者「金栗四三」とは誰?

マラソンの世界記録と聞いて、速いほうの記録保持者を知る人は多いでしょうが、遅い世界記録保持者は知っていますか。そのマラソンの「遅い」世界記録保持者は「金栗四三」という人なのですが、金栗四三とは、どのような人なのでしょう。

マラソンの「遅い」世界記録保持者「金栗四三」とは誰?

箱根駅伝の創設に貢献

失意のストックホルムから帰国した金栗は大正9年(1920年)2月14日、大学生によるマラソンの大会を開催します。このマラソン大会こそが後に正月の風物詩となる「箱根駅伝」で、第1回は早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学、金栗の母校である東京高等師範学校(現在の筑波大学)が参加しました。

きっかけとなったのは1967年

オリンピックから50年以上たってからも「消えたオリンピック選手」と伝えられた金栗ですが、遂にゴールのときを迎えます。1967年に「ストックホルムオリンピック55周年式典」を行うための記録整理を行っていた関係者が、「金栗四三は失踪、行方不明」との記録を発見。関係者は「棄権をしていないのでまだ走っている、それならゴールさせてやろう」ということで金栗を式典に招待することに。

粋な計らいで遂にゴールのときが・・

そうしてオリンピック記念式典に招待された金栗は、すでに75歳と高齢になっていました。スーツにネクタイを締め、ロングコートを羽織った金栗は、用意されたゴールテープに飛び込んでいきました。ゴールしたときのタイムはなんと「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379」!場内には「日本の金栗がゴール、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379、これにて第5回ストックホルム全日程を終了します」とアナウンスも流れました。ゴールした金栗はこのとき「長い道のりだった。この間に孫が5人できた」と語り、周囲を笑わせたと言われています。

晩年は教育委員長を務める

感動的なゴールを果たした金栗は、その後故郷の熊本に戻り、玉名市で晩年を過ごします。熊本県教育委員会の初代委員長を務めるなど、指導者としても活躍した金栗は玉名市の名誉市民として表彰もされた金栗は、昭和58年(1983年)11月13日に92歳の生涯を終えました。

ゴール劇にはその後続きがあった

ストックホルムの感動的なゴール劇には続きがありました。金栗の死後29年がたった2012年、金栗のひ孫が金栗を看病した農家の子孫のもとを訪ね、看病のお礼をしに行きました。2012年は金栗が倒れた1912年からちょうど100年の年、ひ孫は当時金栗が食べた料理を食べ、子孫には皿を贈ったようです。

遅い世界記録の裏にはドラマがあった

速い世界記録の裏であまり知られていない遅い世界記録。その世界記録を残した裏には、心温まるドラマがあったのです。マラソン記録を目にする際は、そのようなドラマにも目を向けてみると見方が変わるかもしれませんよ。

この記事を読んだ方はこんな記事も読んでいます